2007年12月31日月曜日

賀詞交換会

恒例の賀詞交換会と神田明神昇殿参拝を行います。
元旦正午、御宿稲荷前集合参拝
12:15 浦安稲荷参拝
12:30 神田明神昇殿参拝
参拝後社殿正面にて記念撮影
12:50 明神会館にて賀詞交換会(町会長の年頭の挨拶があります)
町会員多数のご参加をお待ちしております。
全て参加するも良し、スケジュールに合わせてご都合の良いポイントだけ参加するも良し、お気軽にご参加下さい。
(参加資格:町会員)

尾嶋公園


四日間にわたった歳末警戒も昨日(今朝の5時半までという新記録とか)終了しました。青年部の皆様お疲れ様でした。
防犯部・防災部・消防団の皆様有難うございました。
激励に訪問いただいた皆様有難うございました。
尾嶋公園は、今日午前中にテントも撤去され元通りとなっております。
では皆様よいお年をお迎えください。

2007年12月30日日曜日

歳末警戒最終日




歳末警戒の今日は町も静かに暮れてゆきます。マンション住まいの迷子の高齢者を交番へ送り届けました。
9時30分参加OBは、中締め解散となりました。後は青年部の皆様宜しくお願いします。



歳末町内一斉清掃


12月30日11時より町内一斉清掃をしました。

子供ひろばも綺麗になりお正月を迎える準備が出来ました。

2007年12月29日土曜日

歳末警戒三日目




本日も当番の人は頑張ってパトロールしています。


今小雨が降ってきました。


明日はOBの日です。


千代田区長石川雅己さん


12月28日(金)午後9時40分頃千代田区長石川雅巳さんが高橋防災課長さんを伴い激励巡回にお見えになりました。外は本降りの雨となりテントの中では、同じく激励巡回から戻られた米山会長や伊藤出張所長さんを交え賑やかな会となりました。

米山防犯協会会長(町会長)と渡辺神田警察署長


12月27日午後7時50分頃

神田防犯協会米山会長と神田警察署渡辺署長さんが「夜間詰め所激励巡回」にお見えになりました。27日に13ヶ所、28日に14ヶ所、29日に5ヶ所を巡回激励されるそうです。

鎌倉町の歳末警戒も元気に始まりました。

お気軽に若い人たちの激励にお立ち寄りください。

2007年12月27日木曜日

歳末警戒が始まります

本日より歳末警戒が始まります。
19時より23時30分まで。
尚、19時50分頃神田警察署と神田防犯協会の夜間詰め所激励巡回があります。
町会員の皆様、ご集合ください。

2007年12月24日月曜日

歳末警戒本部テント設営


歳末警戒本部テントが設営されました。

青年部・防災部・防犯部の皆様お疲れ様でした。

2007年12月19日水曜日

本部会議

歳末に当たり、本部会議を下記の通り開催します。
本部役員の方は御集合ください。

日時:平成19年12月26日(水)6:30pm
場所:千代田区スポーツセンター2階神竜会議室
議題:1.年末年始行事予定確認 2.その他

2007年12月17日月曜日

平成20年新年会 兼 新成人を祝う会

下記により開催いたします。
配布済みのご案内をご覧になり、申込書を12月22日までにご提出ください。

日時:平成20年1月10日(木)午後6時30分開会
会場:明神会館 電話03-3254-0753
会費:¥5,000 (当日受付にてお支払いください)

2007年12月7日金曜日

歳末警戒スケジュール


内神田鎌倉町会の歳末警戒は、下記の通り行います。

地域の安全と町内の親睦の為、是非ご参加・激励訪問をくださるようお願いいたします。(写真は昨年撮影)

場所:尾嶋公園(内神田1-5-14)

期間:平成19年12月27日(木)~30日(日)
時間:19時~23時30分

2007年12月2日日曜日

かまくら児童遊園(龍閑児童公園)


全国地方銀行協会前にある公園の桜(町会創立50周年記念植樹)です。

師走になりました。


尾嶋公園の木々も色づいてきました。

2007年11月28日水曜日

歳末警戒テント設営

平成19年12月23日(日)午前10時防災倉庫前集合 雨天順延
例年通り、尾嶋公園に設営します。
担当問い合わせ先:青年部・防災部・防犯部

設営にご協力ください。

歳末助け合い運動

募金活動期間 12月1日~12月10日
担当お問い合せ先:婦人部

平成19年忘年会

日時:平成19年12月4日(火)18時30分
場所:かまくら 日立鎌倉橋別館地階 電話3292-8266
会費:5,000円

2007年8月27日月曜日

鎌倉河岸と徳川家の盛衰

鎌倉河岸と徳川家の盛衰
 次に嘘のような本当の話だとされているが、鎌倉河岸にかかわることなので書き加えさせていただく。
 三代将軍家光はなかなか子供が出来ず幕府も心配し、特に乳人の春日の局は大変苦慮していたが、たまたま鎌倉河岸を通りかかったときに、そこの古着屋の娘が体格も良く、家光の気に入るタイプと考え、早速旗本増山正利の姉として城内に伴ったところ、家光も大変気に入り、間もなく元気な男子を出産した。これが四代将軍家綱となったということである。このめでたい話と対照的なのが、大政を奉還した十五代将軍慶喜の話である。慶喜は、勝海舟等の策を入れて平和解決を決断し、江戸城に官軍の無血入城を謀ったが、佐幕派の武士に「慶喜は自ら命を惜しんで徳川家を滅亡させた」武士にあるまじきものであると非難された。その後慶喜は、勝海舟等の尽力で静岡に隠居してその人生を全うしたが、徳川家としてもその没後徳川将軍として扱うことが出来なかったので、徳川家代々の墓所に入ることが出来ず、谷中に一般人と同様に葬られた。
 このことをあえて追記したのは、慶喜の葬儀、年回の祭祀は神田神社の宮司がこれを祀り司り現在に至っていることを知る人が少ないと思うからである。
神田神社氏子総代 内神田鎌倉町会顧問 故遠藤達蔵氏著
神田鎌倉町物語より

2007年8月26日日曜日

鎌倉河岸 江戸城の築城と鎌倉町の関わり

江戸城の築城と鎌倉町の関わり
 徳川家康公江戸入府後直ちに江戸城に縄張りが施され、傘下の大名に命じて江戸城の築城工事が着手された。家康公はこのとき既に、豊臣家に変わり江戸に幕府を開く考えだったと思われる。江戸城の遺構は現在の皇居を囲む堀割とほとんど同様の形態であるが、板東に広大な武蔵野はあっても、築城に必要な木材や石材がない。そこで旧領駿遠三の山々から巨大な木材を伐りだし、天竜川大井川等を流下させ、海は筏を組んで江戸の日比谷の入江に入れた。石材は伊豆を中心に切りだし、これも筏に乗せて日比谷の入江に運び、そこから平川を遡らせ現在の大手前の作業場に運び込んだ。木材は鎌倉幕府以来、鎌倉材木座にあった材木市場の材木商人を江戸に呼び寄せ彼等の力を借り入れた。平川を遡行させた木材は現在の神田橋から引き揚げ、旧柴崎村の跡地を作業場として切削の作業を行い、石材はやはり神田橋付近の荷揚作業場で用途に応じて切り組み、主として堀の造成に使った。城の堀は水の上に出ている部分以上に基礎を作るので、莫大な数量の石材が必要であり、また石垣積みは特殊な技術を要するため、全国から名工と呼ばれ、特に堀の石垣積みに熟練したものを集め、また図面により堀を各大名に分担させて仕事を競わせた。そのため全国から大工、小工、石工が続々と集まり、柴崎村の旧地はまるで戦場のようであったと幕府の記録に残っている。また鎌倉材木座の材木商人は平川の東側に指図小屋を建て、作業奉行指揮の下に旧柴崎村跡地に材木を運びこんだ。この時鎌倉材木座から呼び寄せられた材木商人は、慶長九年以来嘉永十四年に至るまで築城完成後も鎌倉河岸に土地を与えられ、大名旗本屋敷の建築の用材を販売する特権を与えられ、幕末まで商いを続けたため、この場所を鎌倉河岸と呼ぶようになったのである。
神田鎌倉町物語(故遠藤達蔵氏著)より 

歴史

神田という地名とその背景(故遠藤達蔵氏著神田鎌倉町物語より)
 神田という地名が、地図の上に載ったのはそんなに古いことではない。江戸時代は大体この辺が神田、この辺が日本橋と呼ばれていた。江戸が東京と改められ区政により区の境界が定められて、はじめて神田区としてその地名が公認された。そののち神田区と麹町区が合併して千代田区となると、神田という区割り上の名称は再び消えてしまう。さてこの神田という地名は何から起こったのであろう。古代、現在の駿河台は神田山と呼ばれていた。
 天正18年(1590年)徳川家康公が江戸へ入った時、まず旗本や大名の居住地を定めることが必要となり、お城の東の神田山を旗本に割り当てた。神田山はお城の東側を守る要害の地でもあったからである。以来徳川家旧領駿河の国を懐かしんで、駿河台と呼ぶようになった。さて城の南、大手町前の土地は古く柴崎村という戸数100戸ばかりの村であった。ここには鎌倉時代に真教上人が来訪し、たまたま村内の将門塚が荒れ果て、天変地異が続いて、これは将門公の祟りであると恐れおののいていたので、上人は塚を修復し、傍らの小祠に将門の霊魂を祀って神田明神と称して供養したところ、将門公の怨念も鎮まったと時宗の古文書にある。この柴崎村を江戸城建設の作業所にするため、村ごと浅草に、同時にここにあった柴崎道場(日輪寺)も移転された。又同様に村内の神田明神を二代将軍の命によって、現在地湯島に桃山風の壮麗な社殿を建築し将門公の末裔という柴崎勝吉を神主に任命してその祭祀を取り扱わせた。以来柴崎氏は明治維新まで連綿と祭事を司り、江戸の総鎮守の責務に当たった。尚明治維新によって江戸が東京に改められたとき、新政府の役人の中で、神田という地名は昔ここに伊勢大神宮の神餅に用いる米を作った事によるとの新説を唱えるものがでて、新政府におもねる者が、この説を記した者があるが、これはとんでもない誤りで、当時の柴崎村は江戸湾の奥の漁村であり、神餅を作付けする良田など有るあずはないのである。

2007年8月16日木曜日

写真の投稿

今、試しに写真を投稿してみました。
これは1枚ずつなのでしょうか。
アルバムにできると良いのですが。

グーグルのブロガーを試してみます

基本的な設定を終えましたので、今日からこのブロガーで書き込んでいきます。
時間のあるときに少しずつになりますので宜しくお願いします。