2007年8月26日日曜日

鎌倉河岸 江戸城の築城と鎌倉町の関わり

江戸城の築城と鎌倉町の関わり
 徳川家康公江戸入府後直ちに江戸城に縄張りが施され、傘下の大名に命じて江戸城の築城工事が着手された。家康公はこのとき既に、豊臣家に変わり江戸に幕府を開く考えだったと思われる。江戸城の遺構は現在の皇居を囲む堀割とほとんど同様の形態であるが、板東に広大な武蔵野はあっても、築城に必要な木材や石材がない。そこで旧領駿遠三の山々から巨大な木材を伐りだし、天竜川大井川等を流下させ、海は筏を組んで江戸の日比谷の入江に入れた。石材は伊豆を中心に切りだし、これも筏に乗せて日比谷の入江に運び、そこから平川を遡らせ現在の大手前の作業場に運び込んだ。木材は鎌倉幕府以来、鎌倉材木座にあった材木市場の材木商人を江戸に呼び寄せ彼等の力を借り入れた。平川を遡行させた木材は現在の神田橋から引き揚げ、旧柴崎村の跡地を作業場として切削の作業を行い、石材はやはり神田橋付近の荷揚作業場で用途に応じて切り組み、主として堀の造成に使った。城の堀は水の上に出ている部分以上に基礎を作るので、莫大な数量の石材が必要であり、また石垣積みは特殊な技術を要するため、全国から名工と呼ばれ、特に堀の石垣積みに熟練したものを集め、また図面により堀を各大名に分担させて仕事を競わせた。そのため全国から大工、小工、石工が続々と集まり、柴崎村の旧地はまるで戦場のようであったと幕府の記録に残っている。また鎌倉材木座の材木商人は平川の東側に指図小屋を建て、作業奉行指揮の下に旧柴崎村跡地に材木を運びこんだ。この時鎌倉材木座から呼び寄せられた材木商人は、慶長九年以来嘉永十四年に至るまで築城完成後も鎌倉河岸に土地を与えられ、大名旗本屋敷の建築の用材を販売する特権を与えられ、幕末まで商いを続けたため、この場所を鎌倉河岸と呼ぶようになったのである。
神田鎌倉町物語(故遠藤達蔵氏著)より