鎌倉河岸と徳川家の盛衰
次に嘘のような本当の話だとされているが、鎌倉河岸にかかわることなので書き加えさせていただく。
三代将軍家光はなかなか子供が出来ず幕府も心配し、特に乳人の春日の局は大変苦慮していたが、たまたま鎌倉河岸を通りかかったときに、そこの古着屋の娘が体格も良く、家光の気に入るタイプと考え、早速旗本増山正利の姉として城内に伴ったところ、家光も大変気に入り、間もなく元気な男子を出産した。これが四代将軍家綱となったということである。このめでたい話と対照的なのが、大政を奉還した十五代将軍慶喜の話である。慶喜は、勝海舟等の策を入れて平和解決を決断し、江戸城に官軍の無血入城を謀ったが、佐幕派の武士に「慶喜は自ら命を惜しんで徳川家を滅亡させた」武士にあるまじきものであると非難された。その後慶喜は、勝海舟等の尽力で静岡に隠居してその人生を全うしたが、徳川家としてもその没後徳川将軍として扱うことが出来なかったので、徳川家代々の墓所に入ることが出来ず、谷中に一般人と同様に葬られた。
このことをあえて追記したのは、慶喜の葬儀、年回の祭祀は神田神社の宮司がこれを祀り司り現在に至っていることを知る人が少ないと思うからである。
神田神社氏子総代 内神田鎌倉町会顧問 故遠藤達蔵氏著
神田鎌倉町物語より